Jさんと神様との出会い

 私がはじめて教会を訪問したのは中学三年生の時でした。高校生だった2つ年上の兄が登校拒否になり、心配した両親がお寺やカウンセラーのところへ相談に行きましたが、解決が得られず、クリスチャンであった叔母が教会を紹介してくれました。
 しかし一人で教会に通うのが嫌だった母は、私を何度も誘ってきました。その頃の私は、サッカーに明け暮れていたのと、受験期を迎えていたため母の誘いを何度も断りましたが、最後は、母の誘いに負け、「一度くらいは牧師の顔を見てもいいか」という軽い気持ちと好奇心から教会に足を運びました。
すべてが初めの体験で、その日聖書からどのようなことが話されていたのかは覚えていませんが、教会を後にした時、今迄感じたことのない平安を感じていたのを今でも覚えています。それは、クリスチャンの方々が、人の良し悪しなどによって人を評価せず、私自身のありのままを受け入れて下さっているのを感じたからでした。
その頃の私は、思春期も相まって周囲の大人の評価に疑問と失望を覚えていました。それは、人は何かができれば、大切にされ、価値ある存在として認められる。しかし期待に沿えなければ評価されず、まるでその人の存在価値までもないかのように扱われているように思えたからです。
 私はクリスチャンとの出会いを通して、クリスチャンの価値観、生き方に驚きと同時にどうしたらこのように生きることができるのだろうか。この人たちを動かしているものはいったい何だろうか知りたいと思い、心が吸い寄せられるようにして毎週教会に通い、クリスチャンと交わり、聖書を教えてもらい、また自分でも読むようになりました。
 そのような中で神様は私自身の心を照らされ、私自身が幼い頃から抱えていた人生における問いにも答えて下さいました。それは人生の意味、目的は何であるのかという問い、また死の問題に対する解決です。以前の私は、まるでその心の空しさを紛らわすかのように、夢や目標をつくって生きていました。しかし神様は、聖書を通して、神がこの世界を創造され、私たちひとりひとりを無条件で愛して下さっていること。どうして人間が人生の目的が分からず、何をやっても心の空しさを満たすことができないのか、それは、人間の内にある罪、自己中心が問題であること。その罪から救い出すために神のひとり子であるイエス・キリストが来られ、罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目に死からよみがえられ、信じる者に永遠のいのちを与えて下さるということを教えてくれました。
 私は、聖書を通して、どうしてクリスチャンが人をありのまま愛し、心に平安をもって、希望をもって生きているのかが分かりました。私も、この神様を信じていきたいという思いが与えられ、中学3年生のクリスマスに洗礼を受けました。あれから約30年が経ちますが、今でも変わることなく、私の心は、神様の愛と平安によって満たされています。

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